皆空の中で...

ヨット オケラ2世の思い出

【オケラ2世の思い出】
                                 目次へもどるは → こちら

……1972年(昭和47年)お寺の境内でOKERA2世を建造……

1972年(昭和47年)
オケラ1世で伊豆大島の波浮港への航海など外洋クルーザーの魅力にとりつかれて遊んでいるうちに,小笠原諸島あたりまで航海できるヨットを作ろうとの話になりました。オケラ1世の思い出は → こちら
大きなヨットを作るには,それに合った広さの土地が必要となる。オケラ仲間にはお金は無い。広い土地を無料で貸してくれるところはないかと探すことになりました。

ヨットを始める前からアマチュア無線で知り合いになっていた神奈川県津久井湖畔の友林禅寺の浅野弘山和尚(故:ex.JA1WUS)から「雲水時代の弟弟子が三浦の福寿寺の住職をしている」との話を聞き,浅野弘山和尚から福寿寺の杉山滴水和尚を紹介していただいいた。修行僧時代の兄弟子,弟弟子の関係は住職になっても続くようで,兄弟子からの話ならと福寿寺の敷地を使わせていただけることになりました。その場所は福寿寺の石段の右側10mほどの山裾にある畑でした。(福寿寺:神奈川三浦市南下浦2062)
下の写真の左側が福寿寺の入口。当時は写真の右側の茶色の建物や電柱は無く,山裾の畑は自動車の先の薄日のあたっている(中央の電柱の後ろ)狭い道を登った先にありました。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺の下

当時,畑だった場所(建造した場所)は,今は藪の状態になっています。
次の写真は福寿寺の山門に入ったところです。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺山門

次の写真は山門の右横にある福寿寺の由来の立て札です。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺の言われ

次の写真左は山門横から石段方向です。右側に古い石塔がならんでいます。写真右は福寿寺へ登る石段。この石段の右側10mほどのところの畑でオケラ2世を建造しました。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺山門横 福寿寺石段

次の写真は石段を登ると正面に建っている福寿寺の本堂。奥に見える建物は庫裏です。本堂と庫裡は故:杉山滴水和尚の力で建直しされました。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺

次の写真は墓地へ登る坂道から見た福寿寺。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺上から

福寿寺と当時の住職「故:杉山滴水和尚」にはオケラ2世の建造時のみならず,その後もオケラ仲間達が大変お世話になりました。
当時は,石段を登った左側に庫裏があり,右側へ本堂が南向きに建っていました。庫裏と本堂との間に小さな庭園がありました。多田雄幸さん,斉藤茂夫さん,石崎文雄さん,真道恒平さん,白石義雄さん(よっちゃん)などヨットオケラのメンバーは杉山和尚を囲んで毎晩のように酒を飲んでいました。杉山和尚の奥様には多大な迷惑をかけました。
次の写真は,のちに深い関係で結ばれた西堀栄三郎先生,植村直己さん,多田雄幸さんの友情をたたえる顕彰碑です。顕彰碑は石段を登った左側にあります。顕彰碑の裏側に,当時の関係者の名前が刻まれています。
          (写真はクリックで拡大します)
     福寿寺顕彰碑全体

次は西堀栄三郎先生,植村直己さん,多田雄幸さんの友情をたたえる顕彰碑についての読売新聞記事(1992年8月29日)です。     (新聞記事をクリックし,再度クリックすると拡大します)
OKERA福寿寺顕彰碑-読売新聞DBV


オケラ2世の建造へ話をもどします。
オケラ2世は31フィートFRPクルーザでした。設計はオケラ1世を自設計自作した斉藤茂夫さん,建造も9割がた斉藤さんでした。彼は定まった仕事をもたず,ヨット作りに専念していました。船体はプラスチック発泡板の両面をFRPで積層するサンドイッチ構造で作りました。
オケラ2世の建造手順を次のイメージ図で説明します。先ず,設計図に合わせてハル(船体)のフレームを作ります。(写真はクリックで拡大します)
フレームを作る 発泡板を張る
ハルの骨組みは次の絵のように鯨の形をした大きなハリコのようなものです。これに,発泡板(エアレックス等)を小さく切って釘で張り付けます。(写真はクリックで拡大します)
        ヨットを作る
張り付けた発泡板の上にガラスのクロスを樹脂で積層します。積層を重ねて十分な強度が得られたら,水の抵抗が少なくなるように表面を研磨します(この作業は大変です)。
船体(ハル)の表面の研磨を終えたら,骨組みも一緒に船底が下になるように回転させます。この作業は,船首側と船尾側に丸太でヤグラを組み,チェーンブロックで吊り上げて少しずつ回転させます。
次いで,内側から不要なフレームを取り外します(強度を保つため必要なフレームは残します)。
船内側から,発泡板をFRPで積層します。船内側は多少の凹凸が発生しても問題がないので,ガラスマットを使って3回程度積層します。ヨットのデッキも同様の工程で作り,ハルと張り合わせます。キールも同様に作り,船体の下へ取り付けます。このような手順でオケラ2世は作られました。

オケラ2世の設計にあたっての絶対条件は海までの道の壁幅よりハルの幅が大きくないことでした。建造地の畑から海への道の壁幅よりヨットの幅が大きいと海へ運べないからです。
船体が完成した時点で海へ運ぶことにしました。次のイメージ図のような船台へ乗せました。
次はキールが取り付けられ台車に乗せたオケラ2世のイメージ図です(当時の写真が発見できません)。(写真はクリックで拡大します)
   船台で運ぶ

マストも何も無い状態でないと,木の枝が邪魔で海へ運べない道でした。船台に乗せたオケラ2世を畑から農道へ下ろすために4mほどの橋を作り,危なっかしい橋の上をそろりそろりと渡らせました。
福寿寺の前の道から海への道が狭く,左舷右舷が民家の塀ギリギリの状態でソロリソロリと海岸道路まで運びました。次の写真がオケラ2世を台車へ乗せて運んだ福寿寺から海への道です。この両側の幅がヨット設計の絶対条件でした(この幅より広いと海へ出られない)。(写真はクリックで拡大します)
   福寿寺からの狭い道

現在,海岸道路の先が埋め立てられ広い土地ができていますが,当時は,海岸道路からすぐに海岸へおりられる状態でした。道路から海岸へも台車へ乗せたまま下ろしました。当時はクレーンなど雇う金も無かったので,総て自分たちで運ぶことが当然と考えていました。
ヨット作りも,海までの運び出しも,総て斉藤さんの頭の中で計算されていました。わずかな人数だけでの運び出しを行うことを考えて,キールの中は中空の状態でした。
海岸の砂の上に板を次々を張って台車を転がし,海水が1mほどの深さまで運びました。この状態で,潮が満潮になるの待ち,ヨットを傾斜させて台車を抜きました。(写真はクリックで拡大します)
     砂浜で満潮を待つ
磯の岩場が近いところで波を受けながらバラスト用の鉛をキールの中にいれるのが難しいので,三崎港の岸壁でバラスト鉛を入れることにしました。バラストが無いため安定の悪い状態でしたが,船外機を取り付けて三崎港まで廻航しました。廻航している間に,残ったメンバーで舟形の大きな羊羹のような鉛の塊を自動車で三崎港の岸壁へ運びました。
次の絵がオケラ2世のキールの構造とバラスト鉛です。キールの中空の部分へ鉛のバラストを1つ,また1つと下ろしてゆけばスコンスコンと入ってゆく予定でしたが,海に浮かべたことでキールの中空部が水圧で両側から押され狭くなり,予定通りにスコンと入ってくれない事態がおきてしまいました。最終的に鉛のバラストをたたき込み何とかキールの中へ押し込みました。
     キールに鉛を入れる
オケラ2世はやや独特の船型のヨットでした。船首のハルの幅はおさえたように狭く,中央部からハルがふくらんだような形で,オケラの仲間の間ではイチジク浣腸型だと勝手なことを言っていました。走らせてみたところ,微風でも良く走る船でした。前に走っているヨットを後ろから追い越したりして遊んでいました。

このオケラ2世は素人軍団のオケラ仲間が小笠原航海をしようとの思いで自作したヨットだったこともあり,レースに出場すると当時のレーティングでは不利な条件が課せられました。レースには積極的に参加せず,クルージングを楽しみました。
オケラ2世は,その後,関西の方へお譲りしました。オケラ二世を買っていただいた頃のことが関西の漆川英典さんのHPの中の「多田雄幸さん」「オケラ」に書かれています。漆川英典さんのHPは → こちら
オケラ2世の自設計自作で得た経験は次のオケラ3世に生かされてゆくのです。
以上,1972年(昭和47年) 頃の話です(写真は最近のものです)。



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---【ヨットの設備関係の目次】---
     ・ヨットのエンジン排気と排水設計のポイント ⇒ こちら
     ・ステンレス製のウォーターロックが錆びる原因 ⇒ こちら
     ・ウォーターロックを自作する ⇒ こちら
     ・FRPパイプの自作(曲げパイプ自作) ⇒ こちら
     ・ヨット オケラⅢ世のエンジン排気と排水(古い話) ⇒ こちら


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  1. 2011/12/05(月) 15:20:52|
  2.   ヨット オケラの思い出 3世まで
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  4. | コメント:3
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コメント

初めまして。

ふと亡くなった一郎おじさん(故杉山滴水)の事を思い出し、福寿寺を検索をしたら偶然辿り着きました(^^)
一郎おじさんは酒豪だったので『毎日酒を呑み…』の所で想像して笑ってしまいました(^^)
一郎おじさんと最後に会ったのは僕の祖父で一郎おじさんの実父でもある故杉山健蔵の四十九日でした。
一郎おじさんは出家した身なので本来なら血縁者の葬式等での供養法事は認められてはいませんが、『ワシがやる』と通夜•告別式•四十九日と一郎おじさんの実家のある大阪まで来てくれ全ての法要をしてくれました。

その1年後に一郎おじさんの訃報を聞きました。
僕は当時学生で葬儀には行けませんでしたが、両親から沢山の高位僧侶様が
法要してくれたと話は聞きました。

ふと思い出しインターネットで一郎おじさんの名前を見た時は凄く嬉しかったです。
本当にありがとうございました。

遅くなりましたが、僕は杉山滴水(杉山一郎)の実妹 塚原政子(旧姓杉山)の次男で塚原聖人(まさと)と申します。

失礼します。
  1. 2012/05/11(金) 00:02:22 |
  2. URL |
  3. 杉山滴水(一郎)の実甥 #-
  4. [ 編集 ]

杉山滴水和尚

塚原さんコメントありがとうございます。
昨年,福寿寺の墓地で眠っている杉山和尚の墓参に出かけました。
和尚の奥様はお元気で,和尚が建てなおした本堂の北側の小さな家で静かな日々を過ごしていました。
また今年も福寿寺へ寄りたいと思っています。
コメントありがとうございました。
  1. 2012/05/13(日) 09:23:47 |
  2. URL |
  3. teke103 #-
  4. [ 編集 ]

すみません。

先日はお返事頂きまして本当にありがとうございます。
またお返事が遅くなり申し訳けけございません。

現在、長期東京出張中でPCが手元にありませんので今月末に帰りますが、仕事やプライベートのメールが沢山来てると思うので受信出来ない状態になってると思います。
大変申し訳けございませんが、6月1日以降で一郎おじさんとの写真のメールを送って頂けると嬉しいです。

家に帰りましたら、PCからこちらのブログにアクセスしメールアドレス欄にPCアドレスを書かせて頂きます。

こちらの都合で申し訳けございません。
失礼致します。
  1. 2012/05/22(火) 23:08:38 |
  2. URL |
  3. 塚原 聖人 #-
  4. [ 編集 ]

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