ヨットオケラへのプロローグ
ヨットオケラへのプロローグ
1966年(昭和41年)私はアマチュア無線で石崎君(ex.JA1QDR)と度々交信していました。
彼のシャック(相模原市大沼)を訪問した日に,初めて多田雄幸さんと会いました。
石崎君は叔父の多田雄幸さん(当時35歳)宅に住んでいたのです。
多田雄幸-Wikipediaはこちら
その頃,多田さんは世田谷交通のタクシー運転手をしていました。
私が訪ねた頃は手造りで自宅の建設中で,コンクリートブロックを積み重ねて造っていました。
訪れた日は,平屋根の防水処理のためにアスファルトを溶かして屋上へ流していました。
タクシー仲間のヨッチャン(白石義弘さん)も加わって,皆で作業を手伝いました。
その手造りの建物は土台部分からブロックを積み上げていたため,土の水分がブロック内の
隙間を毛細管現象で上へ登ってきているようで,完成後も室内はいつも湿気の多い家でした。
石崎君は,その家の前に15mのパンザーマストを建て,21MHzと50MHzの八木アンテナを
あげていました。
多田さんはセロニアスモンク,マイルスディビス,ジョンコルトレーンなどのJAZZレコードを
持っていて,休日には油絵を描いたり,JAZZを聴いたりしていました。
石崎君と私はそのレコードを聴きながら酒を飲んでいました。
1967年(昭和42年): この頃まで,多田さんも石崎君も私もヨットに乗った経験はなく,
多田さんが ニューポートJAZZフェスティバルの映画の中の風景に写っていたヨットを見たこと
がきっかけで,「俺達もヨットに乗ってみよう」と言い出しました。
先ずはと,小田急線登戸の多摩川でA級ディンギーに何度か乗ってみました。
やがて海で乗りたくなり,多田さんがFRPのディンギー「Y15」を購入し,三浦の佐島ヨットハーバーへ
置きました。Y15の船名は多田さんの好きなJAZZ曲からブルーモンク(Blue Monk)と名づけました。
多田さんと石崎君と私は,多田さんの個人タクシーや石崎君のポンコツのスバル360で佐島へ
頻繁にでかけ,セーリングやディンギーレースを楽しみました。
下の写真左は Blue Monk(Y15),右はBlue Monkと石崎君と(佐島マリーナにて)
(写真はクリックで拡大します)

下の写真はBlue Monk(Y15)で舵をとる多田雄幸さん(相模湾にて)
(写真はクリックで拡大します)

その頃,佐島ヨットハーバに19フィートのJOGクルーザー(キングフィッシャー)が係留されていました。
Y15乗りの私達から見れば大きなクルーザに見えました。
自分達もクルーザに乗ってみたいとの気持ちがふつふつと沸いてきたが,金銭的に手が届かない
高嶺の花でした。・・・この気持ちが,やがてオケラⅠ世の自作へと つながっていったのです。
アマチュア無線で石崎君と頻繁に通信をしていた頃,神奈川県津久井湖畔の友林禅寺の
浅野弘山和尚(故人:ex.JA1WUS)から
「おまえら無線で勝手なことばかり話していて,何と心得ている!一度,寺へ来い」
と無線で叱られて,津久井湖畔の友林寺へ石崎君と寺へ伺ったことがありました。
この浅野和尚とのつながりで,三浦市金田の福寿寺の杉山滴水和尚(故人)を紹介していただき,
数年後に福寿寺の境内でオケラⅡ世を自作することにつながっていったのです(合掌)。
次のページ 「オケラ1世の思い出」へ続くは ⇒ こちら
外洋ヨット無線ネット「オケラネットの始まり」は ⇒ こちら
多田雄幸-Wikipediaは → こちら
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1966年(昭和41年)私はアマチュア無線で石崎君(ex.JA1QDR)と度々交信していました。
彼のシャック(相模原市大沼)を訪問した日に,初めて多田雄幸さんと会いました。
石崎君は叔父の多田雄幸さん(当時35歳)宅に住んでいたのです。
多田雄幸-Wikipediaはこちら
その頃,多田さんは世田谷交通のタクシー運転手をしていました。
私が訪ねた頃は手造りで自宅の建設中で,コンクリートブロックを積み重ねて造っていました。
訪れた日は,平屋根の防水処理のためにアスファルトを溶かして屋上へ流していました。
タクシー仲間のヨッチャン(白石義弘さん)も加わって,皆で作業を手伝いました。
その手造りの建物は土台部分からブロックを積み上げていたため,土の水分がブロック内の
隙間を毛細管現象で上へ登ってきているようで,完成後も室内はいつも湿気の多い家でした。
石崎君は,その家の前に15mのパンザーマストを建て,21MHzと50MHzの八木アンテナを
あげていました。
多田さんはセロニアスモンク,マイルスディビス,ジョンコルトレーンなどのJAZZレコードを
持っていて,休日には油絵を描いたり,JAZZを聴いたりしていました。
石崎君と私はそのレコードを聴きながら酒を飲んでいました。
1967年(昭和42年): この頃まで,多田さんも石崎君も私もヨットに乗った経験はなく,
多田さんが ニューポートJAZZフェスティバルの映画の中の風景に写っていたヨットを見たこと
がきっかけで,「俺達もヨットに乗ってみよう」と言い出しました。
先ずはと,小田急線登戸の多摩川でA級ディンギーに何度か乗ってみました。
やがて海で乗りたくなり,多田さんがFRPのディンギー「Y15」を購入し,三浦の佐島ヨットハーバーへ
置きました。Y15の船名は多田さんの好きなJAZZ曲からブルーモンク(Blue Monk)と名づけました。
多田さんと石崎君と私は,多田さんの個人タクシーや石崎君のポンコツのスバル360で佐島へ
頻繁にでかけ,セーリングやディンギーレースを楽しみました。
下の写真左は Blue Monk(Y15),右はBlue Monkと石崎君と(佐島マリーナにて)
(写真はクリックで拡大します)


下の写真はBlue Monk(Y15)で舵をとる多田雄幸さん(相模湾にて)
(写真はクリックで拡大します)

その頃,佐島ヨットハーバに19フィートのJOGクルーザー(キングフィッシャー)が係留されていました。
Y15乗りの私達から見れば大きなクルーザに見えました。
自分達もクルーザに乗ってみたいとの気持ちがふつふつと沸いてきたが,金銭的に手が届かない
高嶺の花でした。・・・この気持ちが,やがてオケラⅠ世の自作へと つながっていったのです。
アマチュア無線で石崎君と頻繁に通信をしていた頃,神奈川県津久井湖畔の友林禅寺の
浅野弘山和尚(故人:ex.JA1WUS)から
「おまえら無線で勝手なことばかり話していて,何と心得ている!一度,寺へ来い」
と無線で叱られて,津久井湖畔の友林寺へ石崎君と寺へ伺ったことがありました。
この浅野和尚とのつながりで,三浦市金田の福寿寺の杉山滴水和尚(故人)を紹介していただき,
数年後に福寿寺の境内でオケラⅡ世を自作することにつながっていったのです(合掌)。
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