皆空の中で...

一人乗り水上飛行機の自作(ヨットオケラ番外編)

一人乗り水上飛行機の自作(ヨットオケラ番外編)
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1975年の沖縄海洋博ヨットレースのゴール直前でヨット「カタハ」が沖縄本部町と伊江島の間の浅瀬で座礁しました。その情報を聴いてオケラ3世の多田雄幸さんとゴールで待っていたオケラ仲間の白石義雄さん斉藤さんが「カタハ」とスキッパーのデビットホワイトの救助に向かいました。デービットは多田さん達の友情に感激し,多田さん達に友情をいだくようになりました(多田雄幸さんは外国人からも慕われる人でした)。

海洋博レースを終えたオケラ3世を沖縄から神奈川県三浦の諸磯ハーバーまで廻航する際に,デビットホワイトの「カタハ」も三浦まで一緒に航海しました。多田雄幸さんはデービットホワイトを世田谷祖師谷の自分の借家へ一か月ほど同居させました。デービットは英語を全く話せないオケラ仲間の白石義雄さんとも酒を飲んだりして楽しそうに過ごしていました。
多田さんの借家に一か月ほど居候したデービットは,ヨット「カタハ」に乗せて航海した愛猫を三浦の福寿寺にあずけ,母国へ帰りました。愛猫はアメリカン ショートヘアーで,福寿寺の奥様「美智子さん」にかわいがられました。

オケラ3世は,それから5年ほどの間,オケラ仲間の近海クルージング用として活躍しました。私もオケラ仲間と一緒に八丈島など伊豆七島へのクルージングにたびたび参加しました。
ヨットオケラの設計者の斉藤茂夫さんが,今度は飛行機を作ろうと言い出しました。彼は情熱家で,かつ行動力があるので,独学でも作りたいと一人乗り水上飛行機を作り始めました。

今,考えてみると,飛行機の話は多田さんが言い出したのではと思います。多田さんは,戦時中に中学時代を過ごし,グライダー部で滑空の練習をしていたと話していました。中学校3年時に予科練へ入りましたが終戦となりグライダーは中途半端で終わりました。空への思いを斉藤さんへ語り,ヨットのセールと飛行機の翼は基本的に同じなのでやってみようとなったのではないかと思います。

自作の飛行機が完成したら自分で操縦して飛行を楽しもうと話はふくらみました。飛行をするためには操縦技術がなければならないが,日本での実技習得は多額の金と時間がかかるため,サンフランシスコで実技を習得しようとなりました。

斉藤さんは交通費なしで北米へ渡ろうと,日本から北米へもどる大型ヨット「ソーサリー」のクルーとなって乗船しました。ソーサリーは大型ヨットでしたが,北太平洋でマストを折損し,コーストガードの救助を受け,北米へ曳航されました。斉藤さんとしては結果的に交通費なしで北米へ到着したことになりました。

多田雄幸さんは,個人タクシーで旅費を稼ぎ,成田からサンフランシスコへ向かいました。多田さんと斉藤さんはシスコ郊外のフライトクラブでセスナ機の操縦の実技の講習を受けました。操縦士免許を取得するには規則などを英語で勉強する必要があるため,二人は操縦実技さえ習得できればOKと帰国しました。

最初に自作した水上飛行機は,富士重工の自家用車「スバル1300cc」の水平対向4気筒エンジンを使用しました。完成した水上飛行機のテスト飛行を波の静かな港で実行しました。プロペラは円滑に回転しましたが,飛行機は高速ボートのように海面を走るだけで,離水できる速度には至りませんでした。自作機のテスト風景の写真が残っているはずですが見つからないので絵にかいてみました。
1_自作水上飛行機

多田さん達は,自作機は小型ながら下の写真のように海面を滑るように走り,飛行するとイメージしていました。(写真は新明和工業株式会社=旧_川西航空機株式会社のHPより)
     2_PX-S飛行艇

水上飛行機が離水速度へ達しない原因は「エンジンの馬力不足」と考え,2機目の水上飛行機の自作にとりかかりました。2機目は馬力の大きいマツダのカペラのロータリーエンジンを搭載しました。
2機目の水上飛行機のテストを沼津の内浦三津の港で行いました。馬力の大きいロータリーエンジンでしたが,その重量で機体が深く沈む状態となってしまいました。エンジン出力を高めてテストを繰り返しているうちに操縦席の背もたれ板が熱くなり,背中の薪に火がついてたまらない「かちかち山のタヌキ」のような操縦席でした。

結局,海面を走るものの,波の抵抗を受けて離水できる速度には至りませんでした。水上飛行機は重量を軽くするとともに,速度に応じて増加する水の抵抗をいかに少なくするかがポイントだと反省し,設計を最初から見直そうととなりました。このテストによって,プロペラの前面が自ら巻上げた小さな水の飛沫に当たって摩耗する事象が起きることを知りました。

3機目は,機体を極限まで軽くし,エンジンも軽い大型バイクの空冷750ccとする設計で自作しました。
これまでの2機は伊豆の山中の空き地を借りて自作しましたが,3機目は小田急線生田駅に近い知人(畠中氏)の作業小屋で作りました。畠中氏は,その当時,オケラ3世の雌型を使用して同型モデルのヨットを量産し販売していました。

3機目も胴体をフロートにした水上飛行機でしたが,これまでにない軽量型でした。完成した飛行機の本体と主翼をトラックに乗せて未明の暗い道路を走り,埼玉の戸田の荒川の岸へ運びました。
夜明け前の川岸で主翼を取付け,戸田の荒川へ浮かべました。斉藤さんが操縦士となりテストを開始しました。
水上飛行機は十分に早い速度で水上を走り出しました。ほどなく離水しそうな状態に達し,機体が水面をポンピングした瞬間に機体と尾翼部分の接続部がボキと折れ,機体が頭から川の中へつっこみました。機体は直ぐに浮かび「お尻が切れたトンボが水に浮いた」ようになりました。操縦席の斉藤さんには怪我はありませんでした。

この飛行テストの爆音を聞いて荒川の土手の上で見物していた人達も「あ~あ~」と言って戻って行きました。荒川の管理者風の人が来て「許可なくこのような事をしてはけない」と注意を受けました(当然です)。私達は水に入って壊れた3機目を回収しドラックの荷台に乗せて帰りました。車の中で「もう少しで飛べたのにな~」と話しながら面白かった気分で生田の作業小屋へもどりました。

3度のチャレンジで,胴体をフロートにした水上飛行機は難しいとわかりました。
セスナ機の車輪の代わりに大型のフロートを取付けて,かつ低速度でも大きな揚力が得られるように主翼をもっと大きくすること,セスナ機のようにプロペラを主翼の前に取り付けてプロペラによる風の流れでも揚力が生ずるような構造とすること,胴体をフロートにする場合は胴体の下にアワを吹き込み,アワの浮力で機体を浮かせると効果がある,などなどの改善が必要と話し合いました。

そもそも,自動車の100~200馬力程度のエンジンの単発機で,胴体をフロートにした飛行艇型の水上飛行機を考えた点に甘さがありました。複葉機とし,双発機~4発機にしないと飛行艇型を離水させることは難しいでしょう。

水上飛行機を3回自作して,3回失敗はしましたが「やってみたい事をやった」と言う充実感は残りました。この頃,西堀栄三郎先生から声を掛けられ,北極点犬ぞり単独行とグリ-ンランド犬ぞり縦断にチャレンジする植村直己さんのお手伝いをこととなり,一人乗り飛行機作りの遊びは終わりになりました。

陸上飛行機を自作しなかったのは,テストのために滑走路を使用させてもらえないと思っていたからです。水上飛行機なら,どこか人のいない所でテスト飛行ができるかもとの思いつきからでした。とにかく作ってみたい,水上機なら滑走路がなくてもテストはできそうとの少年のような発想でした。良い子のすることではありませんね~。

下は多田さんの蔵書「日本飛行機100選」です(多田さんは,この本を眺めながら中学校3年で予科練を志願した頃の夢を膨らませていたのかもですね)。
     3_飛行機100選表紙

下は日本飛行機100選の目次です。目次はクリックで拡大します。
日本飛行機100選目次3

下は多田さんが同書に見出し紙を挟んでいたページの写真です。写真はクリックで拡大します。
5_15式飛行艇 6_海軍90式2号飛行艇_川西KF

終わりに,
ヨットであれば,素人が自作した船で海を帆走しても第三者へ被害を与える虞は少ないですが,飛行機となると,素人が自作したものは墜落などの危険性が高く,更に第三者へも被害が及ぶ虞もあるため飛行テスト等をするべきではありません。飛行機自作の話は35年前ですが,飛ばなくて良かったな~と思います。

オケラ5世の思い出(第1回BOCシングルハンド世界一周レース)へ続くは→ → こちら

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  1. 2013/04/08(月) 17:04:10|
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