皆空の中で...

オケラ3世の思い出

ヨット オケラ3世の思い出 (オケラ3世の自作と太平洋横断)
   
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1973年(昭和48年)オケラ2世で1年ほど帆走を楽しんでいたが,レースに参加するにはレーティングで不利になる設計であること等から,新たなヨットを作ろうとなった。
オケラ2世を建造した福寿寺は造船場所から海までの道幅が狭く,ヨット設計においてハルの最大幅が道幅の制限をうけるため新たな建造場所をさがした。
城ヶ島が眼の前に見える宮川漁港(三浦市宮川町11)の空地が借りられることとなり,オケラ三世(30フィート)を多田雄幸,斉藤茂夫ほか数人の仲間と自作した。
オケラ3世はFRPサンドイッチ構造で作成し,ハルとデッキが完成した時点でそれぞれの雌型も作った(同モデルのヨットを作るため)。エンジンはオケラ3世からインボードエンジン化したがお金のない(オケラ)状態のため,横浜の漁港に転がっていた錆びたヤンマーNTS70Rエンジンをもらいうけ,自分達で修理をしてヨットへ搭載した。
次の写真はオケラ3世の完成を祝って乾杯。写真は左から多田雄幸さん,杉山さん,池田さん,白石義雄さん,斉藤茂夫さん。
          (画面はクリックで拡大します)
   オケラ3世の建造宮川で
池田さん杉山さんはオケラ建造を手伝うため清水市から三浦まで車で毎週通ってきてくれた。後に,清水でオケラ3世の雌型を使って同モデルのヨットを自作した。

宮川漁港は,今は岸壁も水路も整備されているが,当時は小型漁船が数隻引き上げられる小さな漁港だった。漁港の出入りは磯の岩場の狭い水路を通る必要があり,キールの深いクルーザーを通過させるにはやや危険な感じだったので満潮を待ってオケラ3世を油壷の隣の諸磯へ廻航した。
次の写真は現在の宮川漁港,今は沖へ出る水路も岸壁も整備されヨットを陸揚げで保管できる状態になっている。
          (画面はクリックで拡大します)
   今の宮川漁港

オケラ3世では伊豆大島や八丈島などへのクルージングを楽しんだ。伊豆大島へのクルージングは金曜日の夜10時に諸磯港のオケラ3世へ集合し,夜11時から伊豆大島の波浮の港をめざすことがあった。伊豆大島の北側の本線航路を夜光虫の光を見ながら波浮港に向けて航海した。
波浮港へ翌朝7時頃に入港し,銭湯で汗を流してからヨットでイッパイやって昼寝をした。夕方暗くなって波浮港を出港し再び相模湾を三浦へ向けて夜間航海を楽しんだ。

八丈島へのクルージングは三浦の諸磯港を金曜の夜の出港すると三浦へもどれるのは月曜になるため,私は往路航海のみ参加し,日曜日中に飛行機で八丈島から東京へ戻ることがあった。

ある時,八丈島からの帰りの航海で寒冷前線の通過に合った。変化する風で左右に動くブームに当たって怪我をせぬようにヘルメットをつけ,カッパうえから安全帯で身体とヨットをつなぎ,ダウンバーストの風の中で航海したこともあった。激しい風でオケラ3世が横倒しになったことがあったが大量の浸水も損傷もなく帰港できた。

当時,諸磯港に係留していたヨット「オリンパス」や「PagoPago」の皆さんにはあたたかく声をかけていただいた(後に「オリンパス」はスキッパーの落合さんが相模湾で遭難するという悲しい事故があった)。

1975年沖縄海洋博覧会が開かれ,その記念レースとして「沖縄海洋博記念 太平洋横断シングルハンドヨットレース」が企画された。太平洋ひとりぼっちで有名になっていた堀江さん,後にヨットスクールで有名になった戸塚さん,ヨット設計者の武市さん,当時のヨット誌オーシャンライフで活躍していた小林さん(女性)達が名乗りをあげていた。ヨットオケラの多田雄幸さんも参加してみたくなった。
オケラ3世をスタート地点のサンフランシスコまで廻航することとなった。次の写真は太平洋横断ヨットレースに参加するためにサンフランシスコに向けて三浦の油壷を出港した時のものです。
          (画面はクリックで拡大します)
   オケラ3世油壺出向_シスコヘ1975年
船尾の板はウインドベーンの羽,なびかせている旗は多田雄幸さんが働いていた「個人タクシー カタツムリ」の組合のものと,三浦の金田漁港の漁師さんから贈られた大漁旗。旗とバックステーの間に斜めに立っているのが21MHzアローラインアンテナです。
下の左の写真は出向直前の多田雄幸さんです。右の写真はオケラ3世のチャートテーブルの前の多田雄幸さんです。奥のボックス内に見えている黒い通信機がライナー15(21MHz10W出力SSBトランシーバー),丸い円盤の付いているものは電波方向探知器[direction finder]です。
               (画面はクリックで拡大します)
出港直前のオケラ3世多田雄幸さん 出港日の多田さんオケラ3世

油壷からサンフランシスコへの廻航中,周波数21.440Hzでヨットとの定時無線連絡をとった。この無線連絡に世田谷のアマチュア無線グループの「世田谷ローカルグループSLG」(会長JA1DBV)が加わり日付変更線を越えても無線連絡が継続できた。また,北米へのフライト中の航空機がヨットからの無線を受信してくれるなどもあった。
油壷を1975年7月6日出向,46日の航海を経てサンフランシスコへ8月22日に到着した。下は当時の新聞の切り抜きです。新聞の記事の下部に当時の太平洋横断の記録が掲載されている。  
          (下図をクリックし,表示画面をもう一度クリックすると拡大します)
Okera新聞記事4

沖縄海洋博記念 太平洋横断シングルハンドヨットレースがスタートし,世田谷ローカルグループ(SLG)が中心になってヨットとの定時無線連絡(オケラネット21.440MHz)を再開した。当時はGPSもなく,衛星通信もない時代だったのでレース中のヨットのポジションなどがオケラネットから日本外洋帆走協会→沖縄海洋博事務局へ伝えられた。
オケラ3世は4位の成績で沖縄のゴールへ入港した。下の写真は沖縄の海洋博覧会のポンツーンに立つ多田雄幸さん。後ろに大漁旗をかざしたオケラ3世が見える。多田さんのTシャツはサンフランシスコヨットクラブからプレゼントされたもの。太平洋を往復してやや疲れた感じだった。
          (画面はクリックで拡大します)
     オケラ3世1975年沖縄レース4位
沖縄海洋博シングルハンドレースのゴール直前でオケラ3世の前を走っていたヨット「カタハ」が座礁した。ゴールしてその情報を知ったオケラ3世の多田雄幸さんはオケラ仲間の斉藤茂夫さん,白石義雄さんと「カタハ」の救助を行った。そのこともありヨット「カタハ」のデービットホワイトと仲良くなり,英語の全く話せない白石義雄さんも一緒に楽しく酒を飲んだりした。デービットは東京世田谷の多田さんの借家に1月ほど滞留した。
このデービットホワイトが数年後にBOC世界一周シングルハンドを企画し,オケラ5世で多田雄幸さんが参加することにつながってゆくのです。

お金のない個人タクシーの運転手の多田雄幸さんが仲間達と手作りヨット「オケラ3世」で太平洋横断レースに参加したことが新聞などに書かれたこと,レース中にアマチュア無線で多くに人達と交信したことなどから,多くの人が多田さんの周りに集まってくるようになった。
下の写真は沖縄海洋博覧会太平洋横断ヨットレース中にアマチュア無線で交信してくれた人達へ送ったQSLカード(交信証)です。(画面はクリックで拡大します)
     1975年沖縄海洋博レースQSLカード
沖縄海洋博覧会ヨットレースが終了し,アマチュア無線クラブ「世田谷ローカルグループ(SLG)」のメンバーも加わってオケラ3世でのセーリングを楽しんだ。
この後,オケラの設計者の斉藤茂夫さんが水上飛行機を自作することとなった。次号へ続く。


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一人乗り水上飛行機の自作は → こちら

オケラ5世 第1回BOCシングルハンド世界一周レースは → こちら

現在のオケラネットのホームページ → こちら


---【ヨットの設備関係の目次】---
   ・ヨットのエンジン排気と排水設計のポイント → こちら
   ・ステンレス製のウォーターロックが錆びる原因 → こちら
   ・ウォーターロックを自作する → こちら
   ・FRPパイプの自作(曲げパイプ自作) → こちら
   ・ヨット オケラⅢ世のエンジン排気と排水(古い話) → こちら


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  1. 2012/05/23(水) 11:55:38|
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