皆空の中で...

OKERAの多田雄幸さんと沖縄海洋博覧会記念 太平洋横断シングルハンドヨットレース

OKERAの多田雄幸さんと沖縄海洋博覧会記念 太平洋横断シングルハンドヨットレース

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 友人から「古い本を整理していたら1975年(昭和50年)の沖縄海洋博記念 太平洋横断ヨットレースに参加したOKERAの多田さんの記事が出てきた」と届けてくれました。記事を読むと多田さんが多くの人を魅する彼の人となりを感じます。

週刊文春表紙S501127
 左はOKERAの多田さんの航海を掲載した
 週刊文春 昭和50年11月27日発刊
 秋のデラックス号の表示です。


 3大特別手記の1つとして
 ヨットは手製,スポンサーなし,
 太平洋横断のタクシー運転手
 多田雄幸と表紙に大きく
 書かれています。

次が,3大特別手記の1つとして掲載された「個人タクシー運転手の多田雄幸さんがオケラ3世で太平洋を往復した記事」です。 
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   上の文中の「ハワイの関岡さんはKH6TD」,「ジョージ・マスナリーさんはKH6HHL」でした。
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モノクロ 137


少年のような心を失わず,いつも相手の気持ちを優先しながら長岡弁で語るオケラの多田雄幸さんの雰囲気をとらえた記事になっていると思いました。

1975年沖縄海洋博シングルハンド太平洋横断ヨットレースの出場艇の名前は ⇒ こちら 

7年後の1982年の世界一周ヨットレースのオケラの記事は ⇒ こちら


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  1. 2014/05/19(月) 16:15:36|
  2.   ヨット オケラの思い出 3世まで
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オケラ3世の思い出

ヨット オケラ3世の思い出 (オケラ3世の自作と太平洋横断)
   
              目次へもどるは → こちら     オケラ2世の思い出へもどるは → こちら        

1973年(昭和48年)オケラ2世で1年ほど帆走を楽しんでいたが,レースに参加するにはレーティングで不利になる設計であること等から,新たなヨットを作ろうとなった。
オケラ2世を建造した福寿寺は造船場所から海までの道幅が狭く,ヨット設計においてハルの最大幅が道幅の制限をうけるため新たな建造場所をさがした。
城ヶ島が眼の前に見える宮川漁港(三浦市宮川町11)の空地が借りられることとなり,オケラ三世(30フィート)を多田雄幸,斉藤茂夫ほか数人の仲間と自作した。
オケラ3世はFRPサンドイッチ構造で作成し,ハルとデッキが完成した時点でそれぞれの雌型も作った(同モデルのヨットを作るため)。エンジンはオケラ3世からインボードエンジン化したがお金のない(オケラ)状態のため,横浜の漁港に転がっていた錆びたヤンマーNTS70Rエンジンをもらいうけ,自分達で修理をしてヨットへ搭載した。
次の写真はオケラ3世の完成を祝って乾杯。写真は左から多田雄幸さん,杉山さん,池田さん,白石義雄さん,斉藤茂夫さん。
          (画面はクリックで拡大します)
   オケラ3世の建造宮川で
池田さん杉山さんはオケラ建造を手伝うため清水市から三浦まで車で毎週通ってきてくれた。後に,清水でオケラ3世の雌型を使って同モデルのヨットを自作した。

宮川漁港は,今は岸壁も水路も整備されているが,当時は小型漁船が数隻引き上げられる小さな漁港だった。漁港の出入りは磯の岩場の狭い水路を通る必要があり,キールの深いクルーザーを通過させるにはやや危険な感じだったので満潮を待ってオケラ3世を油壷の隣の諸磯へ廻航した。
次の写真は現在の宮川漁港,今は沖へ出る水路も岸壁も整備されヨットを陸揚げで保管できる状態になっている。
          (画面はクリックで拡大します)
   今の宮川漁港

オケラ3世では伊豆大島や八丈島などへのクルージングを楽しんだ。伊豆大島へのクルージングは金曜日の夜10時に諸磯港のオケラ3世へ集合し,夜11時から伊豆大島の波浮の港をめざすことがあった。伊豆大島の北側の本線航路を夜光虫の光を見ながら波浮港に向けて航海した。
波浮港へ翌朝7時頃に入港し,銭湯で汗を流してからヨットでイッパイやって昼寝をした。夕方暗くなって波浮港を出港し再び相模湾を三浦へ向けて夜間航海を楽しんだ。

八丈島へのクルージングは三浦の諸磯港を金曜の夜の出港すると三浦へもどれるのは月曜になるため,私は往路航海のみ参加し,日曜日中に飛行機で八丈島から東京へ戻ることがあった。

ある時,八丈島からの帰りの航海で寒冷前線の通過に合った。変化する風で左右に動くブームに当たって怪我をせぬようにヘルメットをつけ,カッパうえから安全帯で身体とヨットをつなぎ,ダウンバーストの風の中で航海したこともあった。激しい風でオケラ3世が横倒しになったことがあったが大量の浸水も損傷もなく帰港できた。

当時,諸磯港に係留していたヨット「オリンパス」や「PagoPago」の皆さんにはあたたかく声をかけていただいた(後に「オリンパス」はスキッパーの落合さんが相模湾で遭難するという悲しい事故があった)。

1975年沖縄海洋博覧会が開かれ,その記念レースとして「沖縄海洋博記念 太平洋横断シングルハンドヨットレース」が企画された。太平洋ひとりぼっちで有名になっていた堀江さん,後にヨットスクールで有名になった戸塚さん,ヨット設計者の武市さん,当時のヨット誌オーシャンライフで活躍していた小林さん(女性)達が名乗りをあげていた。ヨットオケラの多田雄幸さんも参加してみたくなった。
オケラ3世をスタート地点のサンフランシスコまで廻航することとなった。次の写真は太平洋横断ヨットレースに参加するためにサンフランシスコに向けて三浦の油壷を出港した時のものです。
          (画面はクリックで拡大します)
   オケラ3世油壺出向_シスコヘ1975年
船尾の板はウインドベーンの羽,なびかせている旗は多田雄幸さんが働いていた「個人タクシー カタツムリ」の組合のものと,三浦の金田漁港の漁師さんから贈られた大漁旗。旗とバックステーの間に斜めに立っているのが21MHzアローラインアンテナです。
下の左の写真は出向直前の多田雄幸さんです。右の写真はオケラ3世のチャートテーブルの前の多田雄幸さんです。奥のボックス内に見えている黒い通信機がライナー15(21MHz10W出力SSBトランシーバー),丸い円盤の付いているものは電波方向探知器[direction finder]です。
               (画面はクリックで拡大します)
出港直前のオケラ3世多田雄幸さん 出港日の多田さんオケラ3世

油壷からサンフランシスコへの廻航中,周波数21.440Hzでヨットとの定時無線連絡をとった。この無線連絡に世田谷のアマチュア無線グループの「世田谷ローカルグループSLG」(会長JA1DBV)が加わり日付変更線を越えても無線連絡が継続できた。また,北米へのフライト中の航空機がヨットからの無線を受信してくれるなどもあった。
油壷を1975年7月6日出向,46日の航海を経てサンフランシスコへ8月22日に到着した。下は当時の新聞の切り抜きです。新聞の記事の下部に当時の太平洋横断の記録が掲載されている。  
          (下図をクリックし,表示画面をもう一度クリックすると拡大します)
Okera新聞記事4

沖縄海洋博記念 太平洋横断シングルハンドヨットレースがスタートし,世田谷ローカルグループ(SLG)が中心になってヨットとの定時無線連絡(オケラネット21.440MHz)を再開した。当時はGPSもなく,衛星通信もない時代だったのでレース中のヨットのポジションなどがオケラネットから日本外洋帆走協会→沖縄海洋博事務局へ伝えられた。
オケラ3世は4位の成績で沖縄のゴールへ入港した。下の写真は沖縄の海洋博覧会のポンツーンに立つ多田雄幸さん。後ろに大漁旗をかざしたオケラ3世が見える。多田さんのTシャツはサンフランシスコヨットクラブからプレゼントされたもの。太平洋を往復してやや疲れた感じだった。
          (画面はクリックで拡大します)
     オケラ3世1975年沖縄レース4位
沖縄海洋博シングルハンドレースのゴール直前でオケラ3世の前を走っていたヨット「カタハ」が座礁した。ゴールしてその情報を知ったオケラ3世の多田雄幸さんはオケラ仲間の斉藤茂夫さん,白石義雄さんと「カタハ」の救助を行った。そのこともありヨット「カタハ」のデービットホワイトと仲良くなり,英語の全く話せない白石義雄さんも一緒に楽しく酒を飲んだりした。デービットは東京世田谷の多田さんの借家に1月ほど滞留した。
このデービットホワイトが数年後にBOC世界一周シングルハンドを企画し,オケラ5世で多田雄幸さんが参加することにつながってゆくのです。

お金のない個人タクシーの運転手の多田雄幸さんが仲間達と手作りヨット「オケラ3世」で太平洋横断レースに参加したことが新聞などに書かれたこと,レース中にアマチュア無線で多くに人達と交信したことなどから,多くの人が多田さんの周りに集まってくるようになった。
下の写真は沖縄海洋博覧会太平洋横断ヨットレース中にアマチュア無線で交信してくれた人達へ送ったQSLカード(交信証)です。(画面はクリックで拡大します)
     1975年沖縄海洋博レースQSLカード
沖縄海洋博覧会ヨットレースが終了し,アマチュア無線クラブ「世田谷ローカルグループ(SLG)」のメンバーも加わってオケラ3世でのセーリングを楽しんだ。
この後,オケラの設計者の斉藤茂夫さんが水上飛行機を自作することとなった。次号へ続く。


次のページ 沖縄海洋博覧会レースの思い出は → こちら


一人乗り水上飛行機の自作は → こちら

オケラ5世 第1回BOCシングルハンド世界一周レースは → こちら

現在のオケラネットのホームページ → こちら


---【ヨットの設備関係の目次】---
   ・ヨットのエンジン排気と排水設計のポイント → こちら
   ・ステンレス製のウォーターロックが錆びる原因 → こちら
   ・ウォーターロックを自作する → こちら
   ・FRPパイプの自作(曲げパイプ自作) → こちら
   ・ヨット オケラⅢ世のエンジン排気と排水(古い話) → こちら


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  1. 2012/05/23(水) 11:55:38|
  2.   ヨット オケラの思い出 3世まで
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ヨット オケラ2世の思い出

【オケラ2世の思い出】
                                 目次へもどるは → こちら

……1972年(昭和47年)お寺の境内でOKERA2世を建造……

1972年(昭和47年)
オケラ1世で伊豆大島の波浮港への航海など外洋クルーザーの魅力にとりつかれて遊んでいるうちに,小笠原諸島あたりまで航海できるヨットを作ろうとの話になりました。オケラ1世の思い出は → こちら
大きなヨットを作るには,それに合った広さの土地が必要となる。オケラ仲間にはお金は無い。広い土地を無料で貸してくれるところはないかと探すことになりました。

ヨットを始める前からアマチュア無線で知り合いになっていた神奈川県津久井湖畔の友林禅寺の浅野弘山和尚(故:ex.JA1WUS)から「雲水時代の弟弟子が三浦の福寿寺の住職をしている」との話を聞き,浅野弘山和尚から福寿寺の杉山滴水和尚を紹介していただいいた。修行僧時代の兄弟子,弟弟子の関係は住職になっても続くようで,兄弟子からの話ならと福寿寺の敷地を使わせていただけることになりました。その場所は福寿寺の石段の右側10mほどの山裾にある畑でした。(福寿寺:神奈川三浦市南下浦2062)
下の写真の左側が福寿寺の入口。当時は写真の右側の茶色の建物や電柱は無く,山裾の畑は自動車の先の薄日のあたっている(中央の電柱の後ろ)狭い道を登った先にありました。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺の下

当時,畑だった場所(建造した場所)は,今は藪の状態になっています。
次の写真は福寿寺の山門に入ったところです。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺山門

次の写真は山門の右横にある福寿寺の由来の立て札です。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺の言われ

次の写真左は山門横から石段方向です。右側に古い石塔がならんでいます。写真右は福寿寺へ登る石段。この石段の右側10mほどのところの畑でオケラ2世を建造しました。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺山門横 福寿寺石段

次の写真は石段を登ると正面に建っている福寿寺の本堂。奥に見える建物は庫裏です。本堂と庫裡は故:杉山滴水和尚の力で建直しされました。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺

次の写真は墓地へ登る坂道から見た福寿寺。(写真はクリックで拡大します)
     福寿寺上から

福寿寺と当時の住職「故:杉山滴水和尚」にはオケラ2世の建造時のみならず,その後もオケラ仲間達が大変お世話になりました。
当時は,石段を登った左側に庫裏があり,右側へ本堂が南向きに建っていました。庫裏と本堂との間に小さな庭園がありました。多田雄幸さん,斉藤茂夫さん,石崎文雄さん,真道恒平さん,白石義雄さん(よっちゃん)などヨットオケラのメンバーは杉山和尚を囲んで毎晩のように酒を飲んでいました。杉山和尚の奥様には多大な迷惑をかけました。
次の写真は,のちに深い関係で結ばれた西堀栄三郎先生,植村直己さん,多田雄幸さんの友情をたたえる顕彰碑です。顕彰碑は石段を登った左側にあります。顕彰碑の裏側に,当時の関係者の名前が刻まれています。
          (写真はクリックで拡大します)
     福寿寺顕彰碑全体

次は西堀栄三郎先生,植村直己さん,多田雄幸さんの友情をたたえる顕彰碑についての読売新聞記事(1992年8月29日)です。     (新聞記事をクリックし,再度クリックすると拡大します)
OKERA福寿寺顕彰碑-読売新聞DBV


オケラ2世の建造へ話をもどします。
オケラ2世は31フィートFRPクルーザでした。設計はオケラ1世を自設計自作した斉藤茂夫さん,建造も9割がた斉藤さんでした。彼は定まった仕事をもたず,ヨット作りに専念していました。船体はプラスチック発泡板の両面をFRPで積層するサンドイッチ構造で作りました。
オケラ2世の建造手順を次のイメージ図で説明します。先ず,設計図に合わせてハル(船体)のフレームを作ります。(写真はクリックで拡大します)
フレームを作る 発泡板を張る
ハルの骨組みは次の絵のように鯨の形をした大きなハリコのようなものです。これに,発泡板(エアレックス等)を小さく切って釘で張り付けます。(写真はクリックで拡大します)
        ヨットを作る
張り付けた発泡板の上にガラスのクロスを樹脂で積層します。積層を重ねて十分な強度が得られたら,水の抵抗が少なくなるように表面を研磨します(この作業は大変です)。
船体(ハル)の表面の研磨を終えたら,骨組みも一緒に船底が下になるように回転させます。この作業は,船首側と船尾側に丸太でヤグラを組み,チェーンブロックで吊り上げて少しずつ回転させます。
次いで,内側から不要なフレームを取り外します(強度を保つため必要なフレームは残します)。
船内側から,発泡板をFRPで積層します。船内側は多少の凹凸が発生しても問題がないので,ガラスマットを使って3回程度積層します。ヨットのデッキも同様の工程で作り,ハルと張り合わせます。キールも同様に作り,船体の下へ取り付けます。このような手順でオケラ2世は作られました。

オケラ2世の設計にあたっての絶対条件は海までの道の壁幅よりハルの幅が大きくないことでした。建造地の畑から海への道の壁幅よりヨットの幅が大きいと海へ運べないからです。
船体が完成した時点で海へ運ぶことにしました。次のイメージ図のような船台へ乗せました。
次はキールが取り付けられ台車に乗せたオケラ2世のイメージ図です(当時の写真が発見できません)。(写真はクリックで拡大します)
   船台で運ぶ

マストも何も無い状態でないと,木の枝が邪魔で海へ運べない道でした。船台に乗せたオケラ2世を畑から農道へ下ろすために4mほどの橋を作り,危なっかしい橋の上をそろりそろりと渡らせました。
福寿寺の前の道から海への道が狭く,左舷右舷が民家の塀ギリギリの状態でソロリソロリと海岸道路まで運びました。次の写真がオケラ2世を台車へ乗せて運んだ福寿寺から海への道です。この両側の幅がヨット設計の絶対条件でした(この幅より広いと海へ出られない)。(写真はクリックで拡大します)
   福寿寺からの狭い道

現在,海岸道路の先が埋め立てられ広い土地ができていますが,当時は,海岸道路からすぐに海岸へおりられる状態でした。道路から海岸へも台車へ乗せたまま下ろしました。当時はクレーンなど雇う金も無かったので,総て自分たちで運ぶことが当然と考えていました。
ヨット作りも,海までの運び出しも,総て斉藤さんの頭の中で計算されていました。わずかな人数だけでの運び出しを行うことを考えて,キールの中は中空の状態でした。
海岸の砂の上に板を次々を張って台車を転がし,海水が1mほどの深さまで運びました。この状態で,潮が満潮になるの待ち,ヨットを傾斜させて台車を抜きました。(写真はクリックで拡大します)
     砂浜で満潮を待つ
磯の岩場が近いところで波を受けながらバラスト用の鉛をキールの中にいれるのが難しいので,三崎港の岸壁でバラスト鉛を入れることにしました。バラストが無いため安定の悪い状態でしたが,船外機を取り付けて三崎港まで廻航しました。廻航している間に,残ったメンバーで舟形の大きな羊羹のような鉛の塊を自動車で三崎港の岸壁へ運びました。
次の絵がオケラ2世のキールの構造とバラスト鉛です。キールの中空の部分へ鉛のバラストを1つ,また1つと下ろしてゆけばスコンスコンと入ってゆく予定でしたが,海に浮かべたことでキールの中空部が水圧で両側から押され狭くなり,予定通りにスコンと入ってくれない事態がおきてしまいました。最終的に鉛のバラストをたたき込み何とかキールの中へ押し込みました。
     キールに鉛を入れる
オケラ2世はやや独特の船型のヨットでした。船首のハルの幅はおさえたように狭く,中央部からハルがふくらんだような形で,オケラの仲間の間ではイチジク浣腸型だと勝手なことを言っていました。走らせてみたところ,微風でも良く走る船でした。前に走っているヨットを後ろから追い越したりして遊んでいました。

このオケラ2世は素人軍団のオケラ仲間が小笠原航海をしようとの思いで自作したヨットだったこともあり,レースに出場すると当時のレーティングでは不利な条件が課せられました。レースには積極的に参加せず,クルージングを楽しみました。
オケラ2世は,その後,関西の方へお譲りしました。オケラ二世を買っていただいた頃のことが関西の漆川英典さんのHPの中の「多田雄幸さん」「オケラ」に書かれています。漆川英典さんのHPは → こちら
オケラ2世の自設計自作で得た経験は次のオケラ3世に生かされてゆくのです。
以上,1972年(昭和47年) 頃の話です(写真は最近のものです)。



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 「ヨットオケラへのプロローグ」へもどるは ⇒ こちら

 「オケラ1世の思い出」へもどるは ⇒ こちら 


---【ヨットの設備関係の目次】---
     ・ヨットのエンジン排気と排水設計のポイント ⇒ こちら
     ・ステンレス製のウォーターロックが錆びる原因 ⇒ こちら
     ・ウォーターロックを自作する ⇒ こちら
     ・FRPパイプの自作(曲げパイプ自作) ⇒ こちら
     ・ヨット オケラⅢ世のエンジン排気と排水(古い話) ⇒ こちら


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  1. 2011/12/05(月) 15:20:52|
  2.   ヨット オケラの思い出 3世まで
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ヨット オケラ1世

【ヨット オケラ1世の思い出】


オケラ1世の誕生の話です。 (オケラ1世より前の話は⇒こちら)
1967年(昭和42年),多田雄幸さんのディンギーY15(船名:Blue Monk)でセーリングを楽しんだ。風が強い日に,Blue Monkで佐島から江ノ島を往復するだけでも長い航海をした気分を感じた。その頃の佐島マリーナに19fのJOG(キングフィッシャー)が1艇繋留されていた。自分達には高みの花だった。
今も陸揚げされているディンギーから「カランカラン」とシートがマストをたたく風音を聞くと昔のことを思い出します。Y15(Blue Monk)の写真は⇒ こちら

1969年(昭和44年),多田雄幸さんが,近所の飲み屋でたまたま隣にいた真道恒平さんから「仲間がヨットを自作している」との話を聞いて,自作中の斉藤茂夫さんを訪れ,それから斉藤さんのヨット自作を手伝うことになった。(多田雄幸-Wikipediaは⇒ こちら)
斉藤茂夫さんは,高校時代から独学でヨットを自設計し,自作していた。ヨット作りに夢中になっている二枚目の青年だった。
自作中のヨットは23フィートのシンプルなチャイン構造(*)だった。夏前に完成し,三浦の諸磯に繋留した。ヨット作りで金がスッカリ無くなったとの意味で,船名を「オケラ」と命名した。---オケラ1世の誕生です。

多田さん,斉藤さん,真道さん,多田さんの甥の石崎君,タクシー仲間の白石ヨッチャンなど,最初のオケラ仲間でオケラ1世のセーリングを楽しんだ。当時,相模湾ではFRP製のブルーウォーター21,24などを相手にヨットレースで競った。また,伊豆大島の波浮港への航海も楽しんだ。

その頃,私は仕事が関西勤務だったため,オケラ1世のセーリングに参加できる機会が少なかった。たまに関西から東京へ戻った時などに多田さんが声をかけてくれ,諸磯のオケラ1世に乗りに行った。素人集まりの小型クルーザー オケラは諸磯ではにぎやかなヨットだったが,多田さんの人の良さで周囲のヨットから温かく見られ,居心地がよかった。

諸磯港に繋留したオケラ1世のクォーターバースで眠りにおちながら聞いた深夜放送の「ハーバーライト」の曲が今も耳に残っている。

*チャイン艇とは前から船底を見ると断面がV字型になっていて左舷右舷への接続部も角ばっている形のヨット。これに対して,船底から舷をふくめ丸くなっている(角が無い)形をラウンド構造と言う。木製でラウンド構造とするのは手間がかかりコストアップとなるため,初期のディンギーにはチャイン構造が多い(スナイプ,Y15など)。



次のページ 「オケラ2世の思い出」は ⇒  こちら


---【ヨットの設備関係の目次】---
     ・ヨットのエンジン排気と排水設計のポイント → こちら
     ・ステンレス製のウォーターロックが錆びる原因 → こちら
     ・ウォーターロックを自作する → こちら
     ・FRPパイプの自作(曲げパイプ自作) → こちら
     ・ヨット オケラⅢ世のエンジン排気と排水(古い話) → こちら


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  1. 2011/12/05(月) 13:58:40|
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ヨットオケラⅢ世の排気と排水(昔話)

ヨットオケラⅢ世の排気と排水…(古い話)
                                 総目次へもどるは ⇒ こちら

---【ヨットの設備関係の目次】---
   ・ヨットのエンジン排気と排水設計の留意点
   ・ステンレス製のウォーターロックが錆びる原因
   ・ウォーターロックを自作する
   ・FRPパイプの自作(曲げパイプ自作)

このページは上の5番目,1975年にオケラグループが自設計手造りしたオケラⅢ世のエンジンと排気管,冷却排水の昔話です。
オケラの船名はヨット造りでお金が無くなってしまったと言う意味でオケラ1世を自作した時に仲間で名付けました。

オケラⅢ世もお金が無いため,リタイヤして横浜港の岸壁に放置されていたポンコツのエンジンを譲り受けて搭載しました。
エンジンの名板にやんまYANMAR NTS70Rの文字がありました。むき出しの大きなフライホイルを手で廻して始動させるエンジンでした。シリンダーヘッドの排気バルブと吸気バルブはコンロッドで動かす方式で,ヘッドカバーも無いエンジンでした。エンジンを始動させる都度,ベコベコと動く排気バルブと吸気バルブに潤滑油を油さしで垂らして使用しました。

タダ同然のエンジンの排気や配水系にお金をかけるのは矛盾するので,ミキシングエルボやウォータロックなど使用しない方法をとりました(下図)。---これが当時のオケラ式です。
エンジンヘッドからの排気を,水道管をつなぎ合わせてクオータバースの最も高い位置まで引き上げ,やや下がった部分に冷却排水をインジェクションする方式です。いたってシンプルですが理屈には合っています。
この方式で油壺→サンフランシスコ→沖縄海洋博レース→油壺と航海できたのですから(但し、船尾排気部にグースネックが無い点は甘い)。(図をクリックすると拡大します)

オケラⅢ世の排気横図オケラⅢ世の排気縦図
この方法で困ったことは,単気筒エンジン特有のアイドリング時の「ゆれ」です。クオータバースの高い部分に引き上げた先端部が大きくゆれるので石綿を巻いて船体へ軽くとめました。
また,エンジンからの排気水を排気管へインジェクションするポイントまで排水を高く押しあげる能力が不足しているのか,排水管に塩がつまることがしばしばありました。一定期間ごとにエンジンヘッドの排水管の内側や,インジェクション部の塩の清掃が必要でした。

特に,このポンコツのYanmarNTS70Rエンジンの冷却水ポンプには苦労しました。
Yanmar YS8などでは,既にインペラー方式の冷却水ポンプが使われていましたが,NTSエンジンでは,ピストン方式の冷却水ポンプでした。蒸気機関車のピストンシリンダーを小型化したようなものです。
船底のコックからフイルターを省略して冷却水ポンプへ接続したのが問題だったのか,しばしば,ピストンシリンダの弁にゴミや貝殻クズがはさまり,冷却ポンプの能力が低下しました。その都度,解体して清掃しました。また,燃料噴射弁の修理もしました。
良かったことは,このポンコツエンジンを頻繁に修理したことで船舶用小型ディーゼルエンジンの勉強になったことです。

その昔,「NTSエンジンを使っているのはオケラⅢ世くらいかも」と話していたら,大儀見 薫さん(故人)が「僕のSIRENAもNTSを使っているよ」と話してくれたこと昨日のように覚えています。

注意:このオケラⅢのエンジン排気管と冷却排水のインジェクション方法はお金がなかった頃のオケラ式であり,適正な方法とは言えません。正規の方法は「ヨットのエンジン排気と排水設計のポイント」をごらん下さい。

「ヨットのエンジン排気と排水設計のポイント」は ⇒ こちら

総目次へもどるは ⇒ こちら



  1. 2011/09/09(金) 15:54:46|
  2.   ヨット オケラの思い出 3世まで
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